映像を見る中国中部の丘陵に、煉瓦の塔が立っています。その足もとから北へ、長い石の溝が延びています。記念碑のようですが、実は測定の道具です。今週の映像は、1280年ごろのある冬至の正午に、そこから始まります。
読み取れる影
中国の天文学者は、昔から、柱の正午の影を測って、年の変わり目を見つけてきました。ただ、影の縁はぼやけています。登封では、建てた人たちが、その柱を塔にしました。高い窓に横木を渡したもので、中国の記録によれば、高さは40尺、昔の圭表の5倍とされます。その下には、約31メートルの石の目盛りが延びています。ぼやけを鋭くするため、観測者は、約2ミリメートルの穴をあけた銅の板を目盛りに沿って滑らせ、横木の像が日光の点を二つに割るところを探しました。塔が建ったのは1276年なのか1279年なのか、史料の意見は分かれていますが、塔はいまも立っています。
これはフビライ・ハンのために建てられました。新しい暦を求めていたのです。その20年足らず前に、弟のフレグは、ペルシアでまったく違う天文台を築きはじめていました。映像は二つの話をあわせて語ります。この組み合わせによって、それぞれの見え方が変わることに、私は気づきました。
マラーゲの丘
1256年、フレグの軍がアラムートの要塞を落とし、そこにいた学者の中に、当時50代のナスィール・アッディーン・トゥーシー(Nasir al-Din Tusi)がいました。捕虜として出てきたのか、自ら進んで加わったのかは、いまも議論があります。1258年にバグダードが陥落したのち、彼は宗教的な基金、ワクフの管理を任され、昔の星表がおよそ250年分も実際の空からずれていると、フレグを説得しました。その結果、1259年から、マラーゲの丘に、基金の収入で賄う天文台が築かれました。現代のある概説は、これをそうした形で資金を得た最初の天文台と呼び、歴史家はしばしば、1265年にフレグが没したあとも天文台が生き延びたのは基金のおかげだとしています。(トゥーシーが、恐れと知識について言いたいことがあって、大釜を丘から転がしたという彩り豊かな話もあります。これは後世のもので、映像では話としてだけ語っています。)
1972年の発掘者たちは、遺跡の姿をたどりました。長さ約400メートルの平らな丘の頂に、円形の中央塔、機器の台座、鋳造の工房、学校、図書館がありました。職員は遠くから来ていました。ダマスカス出身のウルディー(al-Urdi)は、機器と給水設備を造りました。マグリビー(al-Maghribi)はアンダルスから来て、1262年から1274年まで観測帳をつけました。シリア語の学者バル・ヘブラエウス(Bar Hebraeus)はたびたび訪れ、1286年にそこで亡くなりました。
計画は、12年間の惑星観測、つまり木星の一周分でした。トゥーシーのペルシア語の天文表は1270年のすぐあとに出ましたが、ベンノ・ファン・ダーレン(Benno van Dalen)は、その観測結果はまだ含まれていなかったと考えています。含まれていたと述べる古い記述もあります。ただ、予想外のものは含まれていました。新月から始まる月と、十二の動物にちなんだ年の名を持つ、中国・ウイグル暦です。二人の著者が、マラーゲにいた中国の学者に触れており、その名はペルシア語の綴りを通してのみ伝わって、フ・メンチ(Fu Mengchi)とされます。ファン・ダーレンは、彼がおそらく主な典拠であり、この暦はフビライのではなく金の暦の流れをくむものだと考えています。そうだとすれば、一人の男が体系をまるごと西へ運んだことになります。
大都の二つの役所
交通は逆向きにもありました。ブハラ地方出身の天文学者ジャマール・アッディーン(Jamal al-Din)は、1267年、イスラムの暦と、七つの機器の模型か図面(実物だったかどうかは争われています)をフビライにもたらしました。その中には、中国の記録で最初の地球儀も含まれます。1271年、フビライは彼に、約40人からなる回回司天台を与え、その書棚にはプトレマイオスとエウクレイデスが並んでいました。ここは実際の仕事をしていて、恒星と惑星を測り直し、その成果は、おもに1383年の中国語訳で伝わるペルシア語の天文表にまとめられました。それでも、石云里(Shi Yunli)は、その職員が中国側の同僚と言葉を交わした形跡を見つけていません。
中国側の役所は1278年か1279年に置かれ、より大きく、ネイサン・シヴィン(Nathan Sivin)の見積もりでは、この種の改革で最も費用のかかったものでした。王恂(Wang Xun)が計算を取り仕切り、1231年生まれの水利技師、郭守敬(Guo Shoujing)が観測を取り仕切って、帝国じゅうの27か所に班が置かれました。彼らの暦は1281年に施行され、一年を365.2425日としました。この数字は、1198年のもっと前の暦がすでに使っていたものです。ヨーロッパが同じ数字に至るのは1582年です。
渡ったものと、渡らなかったもの
ここは私が驚いたところです。一つの支配者の家のもとに二つの天文台があれば、借用がどっと起こると思うでしょう。専門家が見つけるのは、ちょろちょろとした流れだけです。人は渡り、それとともに、暦は西へ、機器の設計は東へ動きました。しかしファン・ダーレンは、郭の暦のなかにイスラムの天文表を見つけておらず、シヴィンは、この時期に訳されたイスラムの手引書を見つけていません。郭の機器のいくつかはイスラムのものに似ており、学者の意見は両方に分かれます。彼の食の計算法がイスラムの幾何学に何かを負っているかどうかは、まだ決着していません。
マラーゲは、1300年代の初めには静かになっていました。郭の暦は、中国で300年を超えて使われ、登封の塔は、いまも太陽をとらえています。
映像には、塔と丘と人びとが映ります。それぞれの主張の裏づけとなる史料は、さらに掘り下げたい方のために、下に挙げてあります。
出典
- ウィキペディア、「Gaocheng Astronomical Observatory」(登封の塔、40尺の横木と石の目盛り)
- Astronomical Heritage (UNESCO/IAU)、「Dengfeng observatory, China」(塔とその年代)
- Ng Say Tiong and Helmer Aslaksen, 「Calendars, Interpolation, Gnomons and Armillary Spheres in the Work of Guo Shoujing」(針穴の板、『元史』の記述)
- ウィキペディア、「Maragheh observatory」(1259年の創設、丘、1972年の発掘)
- Mediterranea (コルドバ大学)、マラーゲ天文台とそのワクフによる資金についての論文
- ウィキペディア、「Nasir al-Din al-Tusi」(アラムート、ワクフ、バグダードでの死)
- F. J. Ragep, 「Ṭūsī, Naṣīr al-Dīn,」Biographical Encyclopedia of Astronomers (捕虜か客人か)
- MacTutor History of Mathematics, 「Nasir al-Din al-Tusi」(生涯と業績)
- ウィキペディア、「Zij-i Ilkhani」(イルハン天文表)
- ウィキペディア、「Tusi couple」(天文台より古い)
- ウィキペディア、「Mu’ayyad al-Din al-Urdi」(観測機器と給水)
- ウィキペディア、「Muhyi al-Din al-Maghribi」(観測帳、1262年から1274年)
- ウィキペディア、「Barhebraeus」(マラーゲへの訪問と、1286年にそこで没したこと)
- Benno van Dalen, 「Islamic and Chinese Astronomy under the Mongols: a Little-Known Case of Transmission」(Fu Mengchi、中国・ウイグル暦、伝わったもの)
- Benno van Dalen, 「Zhamaluding,」Biographical Encyclopedia of Astronomers (ジャマール・アッディーン、回回司天台、測量)
- ウィキペディア、「Jamal ad-Din Bukhari」(1267年の七つの機器)
- Shi Yunli, 「Islamic Astronomy in the Service of Yuan and Ming Monarchs」(言葉を交わさなかった二つの役所)
- Nathan Sivin, 「Granting the Seasons」についてのMAAの書評(1280年の改暦、その人員と費用)
- Biographical Encyclopedia of Astronomers, 「Guo Shoujing」(機器、観測所、授時暦)
- MacTutor History of Mathematics, 「Guo Shoujing」(生涯、運河、水時計)
- ウィキペディア、「Guo Shoujing」(簡儀とその南京の複製)
- ウィキペディア、「Tropical year」と「Gregorian calendar」(一年の長さの比較)
この手紙は、映像の調査済み台本と出典メモをもとに、AIの支援を受けて書かれました。 訂正を送る